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help リーダーに追加 RSS 【心】裁判から思うこと

<<   作成日時 : 2008/05/11 09:27   >>

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 人が罪を犯した場合の動機をが、裁判で明らかになると期待することがある。
 この期待を裏切る裁判が多い。
 では、裁判で被告人の動機が明らかになるかどうかを考えてみたい。

 この場合には、被告人が真犯人だったとして。

 例として渋谷の夫殺害、死体バラバラ事件。
 (この裁判の経緯や弁護方針などを考えているわけではありません。
  あくまでこの記事を読む人に、裁判関係者をイメージしてもらうためです。)

 警察や検察官の立場から、犯人の動機をどうとらえるか?

 警察や検察は事件事故が発生すると、その事件から現場や関係先に存在する物を調査する。
 その調査結果に基づいて、犯人を逮捕する。
 犯人を逮捕し、その調査結果から犯人に対して「お前が犯人だ」ということを示し、同意させる。
 そして事実を聞き出しいわゆる「供述調書」を作成する。

 この「供述調書」。犯人の動機が含まれているだろうか?
 警察や検察は「犯人を逮捕し、裁判にかける」ことを目的としている。
 裁判の場において、検察官は「犯人の動機を明らかにして動機によって情状酌量を求めているか?」って考えるとなかなか判らない。
 もちろん、求刑内容が最高刑でない限りは検察官の「情状酌量」が明らかに存在する。
 では、動機が検察の手によって明らかになるか?って考えてみる。

 動機を知るためには、犯人が心を開いていないと聞き出せない。
 警察は「送検する」役割。
 しかも事件は多い上に、送検するまでの時間が限られている。
 
 人が心を開くには、時間がかかる。
 心を開くかどうかは、心を開いて良い人かどうか?ってことから始まる。
 さらにお互いに利害関係があっては、さらに時間もかかる。

 まず、警察で心を開く人は少ないだろう。

 検察も同じかもしれない。

 (1)警察と検察に、心を開かない可能性がある。

 では、弁護士。
 本当に心が開けるか?
 接見時間は限られている。
 この限られた時間の中で、人間関係を作ることは難しい。
 多くの時間を一緒に過ごした「友人」ですら心を開けるかどうかは難しい。
 ましてや、自分の利害を任せる弁護士。
 「友人」以上に慎重になる。

 (2)弁護士にも心を開かない可能性がある。

 この(1)、(2)を考えると裁判の場で、被告人の心が明らかになる可能性には疑問の余地が残る。

 その上、「渋谷の夫殺害、死体バラバラ事件」では精神鑑定なるものが。
 私は精神鑑定を行う職業ではないので、そのプロセスについては全く判らない。
 この事件の場合には、さらに複雑。

 ただ、判ることは裁判の場において「被告が心を開いていない」可能性がある。
 ましてや「動機」なるものは判らない可能性がある。

 「裁判で被告人の動機が明らかになる」ってことに期待しすぎることは、かなり無理がありそうだ。

 私が犯人だとしても、動機はわからない可能性がある。

 私が仮に罪を犯すとしても、それは単純ではなさそうだし。
 いろいろな出来事などの積み重ねになりそうだし。

 友人との間でお互いのことを大切に思っていても、何気ない一言で誤解を生んでしまう。
 その誤解が思わない方向へと一人歩きすることがある。

 最近、私もそういった経験をした。
 私の思いも、友人の思いも同じだったと思えるのに、ついつい友人の声に耳を傾けず思い込んでしまった。
 ただ、幸いなことに誤解は解けた。大切な友人を失わなくて良かった。
 些細なことですら、友人を無くすこともある。
 誤解が解けるまでに時間がかかった。
 (誤解が解けたと思い込んでいるのは私だけかもしれないが。)

 裁判には、こんなに時間をかけてはいられない。
 よく裁判で「反省の気持ちがない」って言葉が聞かれる。
 裁判期間で反省できるなんてことも、妄想かもしれない。
 実際に受刑している中で、反省は時間をかけて行うもの。
 刑罰は、反省のためにある。
 決して犯人に嫌がらせをするためにあるわけではない。

 そういう視点にたつと、死刑はおかしい。
 懲役100年っていう考え方のほうが、この視点からは自然かもしれない。
 ただ、100年間よりも「犯人がどう反省するか?」っていう運用面に意味がありそうだが。
 
  

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コメント(40件)

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一般人さん。今日は。
そもそも、人間の行為に明確な動機など存在するのでしょうか?また存在しても自覚しうるのでしょうか?(こちらが問題)例えば、私は今朝「歯をみがき」しましたが、確たる動機が不明です。習慣だから。みがかないとみっともないから。口のなかが気持ち悪いから。買った歯磨がもったいないから。歯を悪くして歯医者にかかりたくないから‥等、その一部でもあるようだし、すべてでもあるようだし、また忘れた点もあるかと思います。てっとり早く話せば「やりたいからやった」となるでしょう。これだと「情状酌量」の存在自体がナンセンス?になってしまいそうです。
しんちゃん
2008/05/13 21:13
しんちゃん。コメントありがとうございます。歯磨きの場合だと、「習慣を守る」ということが動機でしょう。歯磨きを習慣としている人が、その「習慣を破る」ときにはより明確な動機があると思います。破るなりの理由があるからだと思います。「法律を守る」ということに明確な動機を見出すことにはなかなか自身でも難しいですね。「法律を破る」と言われると、動機が明らかになってきます。その動機を見つめなおして、その後でどう生きるか、どうあるべきかを問う時間が刑務所の役割だと思います。そういった意味では、情状酌量は受刑中の経過を観察して、再度判断するべき問題かも知れませんね。
一般人
2008/05/14 20:55
一般人さん。今日は。
動機が「習慣を守る」だと仮定すると、同様のことが他にも言えます。例えば「口の中が気持ち悪いから」という理由で歯をみがく人がみがかない場合、「口の中が気持ち悪くてもいい」という特別な理由が生じます得ますから。
「法律」に関しては事後的に「法律違反だった」こともあるので、単に「法律を守る・破る」だけの観点から動機の明確性を論じるのは疑問ですね。また「法律を破る」と言われると明らかなら、「法律を守る」動機も同様に簡単なのでは?社会的地位の失墜を恐れるとか、刑務所には行きたくないとか‥あくまで推測ですが。もつと違う観点からの考察が必要かと思われます。
ポイントは、「動機で情状酌量が決まる」のなら「動機が本人にとって明確であり、かつそれが言語化されなかればならない」ということでしょう。すべての概念を言語化することは不可能なので、情状酌量を含む量刑は基本的には「間違えを含む」を前提としなければならない運命にあるのでしょう。
しんちゃん
2008/05/14 22:29
上記コメント6行目の「生じます得ます」は「生じ得ます」の誤りでした。
しんちゃん
2008/05/14 22:35
事件の内容によっては、刑期を裁判で決定する事自体に不自然さを感じます。
まず、刑務所が更生のための場であるならば、個人に合った教育や指導、仕事などが与えられる必要を感じます、改善すべき事は多いのではないでしょうか。
また、刑罰がどのような影響を与えるかは、個人によって違うだろうと推測されます。
同じ1年を刑務所内で過ごしても、変わらない人間も、変わる人間もいるでしょう。
罪の重さを判例を基に一律の刑期を決める事は、一見公平なようですが現実的では無いのではないでしょうか?
刑期を終え、再犯を繰り返す人間も実在します。
その人間がどう変わったのかを正しく見極め。
刑期を終えるに相応しいと判断されて始めて社会に復帰させるべきでは無いでしょうか?
その為には、裁判に類似した専門家による審議が行われるようにすると良いのではと思います。



カラ
2008/05/15 01:05
しんちゃんさん。ある特定の個人を見た場合に「歯磨きをしない」という視点から自身で気づくことがある。という意味合いでコメントしたのですが。自身がなぜ「歯磨きを習慣とするか」の答えを探すには、「歯磨きをしないケース」を自分が考えることで、容易に理由を推測することができます。理由がひとつとは限りません。ただ、歯磨きをなぜ習慣としているかの理由は少しずつ明らかになります。
いずれの理由も本人しか分かりませんね。心の問題です。心を開かない状態の裁判で「動機が明らかになるはずは無い」というのが、本記事の趣旨です。
一般人
2008/05/15 19:02
カラさん。
その通りだと思います。
ただ、専門家は経験を積まないと育ちませんね。
まるで、日本の経済学者。実際に経営なり、何なりをした経験が無いのに、政府の諮問機関で意見を述べるような話になる危険性がありますね。
殺意を持って、人を傷つけた場合に相手が死ぬと殺人罪。死なないと傷害罪。殺意を持たず、人を殺してしまっても殺人罪ではない。っていう事実からしてある意味ではゆがんでいるかもしれませんね。今の結果主義の中では、情状酌量という概念が消えつつあるとも思います。
一般人
2008/05/15 19:08
一般人さん。今日は。
歯磨きは、「平静時」の一例に出しただけです。ごく普通の状況でさえ「行為の真の動機」が本人にとって不明確なことが多いという。ましてや、興奮状態のときはです。逆に、どんな状況下でも「自身のこころ」をしっかり見極められるくらい理性的なひとは、「分かってる犯罪行為」などははしないでしょう。
こころを開く云々以前の「こころに対する」こうした自身の矛盾を犯罪を足がかりに語ったのです。
しんちゃん
2008/05/15 22:22
まずは、自らの心を見てみることが可能かどうか?ってことでしょうか?
かなり苦悩を伴いますが、見ることはできますよ。
私には私の心は見えますよ。
しんちゃんさんは、自分の心を見てみたことはないのでしょうか?見たことのない人には可能性の存在すらないのでしょうか?
心を見れるかどうかは、犯罪とは無関係です。
心は見極めるものではありません。自身が自身の心を見て受けとめるものです。理性とはまったく無関係です。心と理(ことわり)とはまったく異なる概念です。
一般人
2008/05/16 23:25
一般人さん。今日は。
物の理を追究するのが物理学。
心の理を追求するのが心理学。概念の相違はありますが、物・心と理が無関係ではないでしょう。余談ですが。
人間と物質との決定的な違いは心の有無です。犯罪を引き起こすのも心が原因です。単なる物質(非人工的)では犯罪は不可能です。
物質との違いで言えば「生きてる」という事です。
つまり「物質+心」=「生命」です。
己を知るということは、自分の肉体と心を常に知ることです。なぜ常にかというとそれが安定してないからです。特に行為の原因となる心を常に知ることは、生きる事を知る事に繋がるでしょう。自分の心を大雑把に知る事は簡単ですが、それは知った事にはなりません。心は一刹那です。ですから正しく知るには、素粒子レベルで己の心知る必要がありますが、相当困難です。ただ可能性はあります。しかも心は曲者ですから、深層心理で表現されるように無意識的な(自己欺瞞的)ものがかなりあります。
それらすべて「知る」ことは、その人が「飛びぬけて理性的」じゃないととても無理です。そうして己の心を如実に知りえるほど理に精通したひとが犯罪などするはずがないのです。
しんちゃん
2008/05/17 08:08
3行目、追求じゃなくて追究でした。誤字です。
しんちゃん
2008/05/17 08:10
逆に、心に支配されている我々が「支配者」の正体を知らないということは「潜在的な犯罪者」といえます。やらないのはただ抑制してるだけです。例えば、欲しいものがあっても盗まないのは、本物ではありません。大災害時に略奪(生き延びたいから)するかもしれません。だから、条件さえ整えばやる可能性があるのです。
しんちゃん
2008/05/17 08:22
上記「抑制」は誤解するかもしれないので「恐怖感などの別感情によって」としたほうがいいでしょう。勿論「抑制」もありますがそれは理性的(不完全)です。しかし恐怖や不安でやらないのならまるで理性的ではありません。
しんちゃん
2008/05/17 08:29
心理学とは一般解を求めています。
心は一般解ではなく特定解です。
心理学は、正規化する行為です。
物理とはまったく異なる世界です。
理性と理とは違います。
理性とは一般解でしかありません。
理とは一般解でもあり、特定解でもあります。
物理は一般式として、一般解、特定解としても扱えます。心理学とはまったく異なります。
特殊な特定解を扱うのが、化学、生物、地学です。さらに特殊な分野が工学です。工学は計測を伴います。それは化学、生物、地学も同じことです。特定解を計測することで成り立っている学問とは、一般解にはなりえません。恐怖や不安でできないのは、人間的です。人間社会は特定解の集合体です。一般解だと思い込むことが危険なことです。文系の人の欠点は、決して一般解が存在しないのにあたかもその一般解を求められると思い込む錯覚から成り立っています。決して文系の人を否定するものではありません。国語の問題で「著者が何を主張しているか?」って言われても読者の視点からは特定解でしかありえませんね。まじめに考えてさえいれば、どの回答も正解です。
一般人
2008/05/23 23:05
理性とは一般解でしかありません。
は間違えました。
理性とは特定解です。
一般人
2008/05/23 23:12
「個別の現象を一般化する試み」が科学的営みであって、その意味では一般解も特定解も相対的なものでしかありません。双方仮説といった方が適切かもしれません。
物理学の一般解は極めて観念的で、その基礎になっている数学上の例えば「線」は実在しません。
ボールを百回落しても、結果は異なります。全く同一の現象など起こりえません。一般解は抽象的存在です。台風の進路も経験値や法則から予想し外れますが、だから偶然とは言えません。気象学が未発達なだけです。
「日本人は○だ」「男とは△だ」「理系人間は‥」等、一般解を前提にしての発想ですが、それは決して個人を否定してるわけではありません。そう思う人がいるなら理解不足です。というより学問信仰かもしれません。学問であれ、言語表現(国語問題等)であれ、一つの手法・手段に過ぎません。
要は各人が理性的(感情・信仰などによる妄信から離れる)であればそれで良いのだと思います。
一般解を知らない故にそれはないとは言い難いでしょう。
(証明)もし一般解が存在するなら、一時的であるか不変であるかのどちらかである。もし一時的なら滅びるし、不変であるなら存在しえない。
しんちゃん
2008/05/24 08:11
上記「一般解は存在しない」の証明方法だと同様の論法で「一般解は存在しない、のではない」も証明出来てしまいますね。
より大切なのは「普遍的、一般的」なものを求める行為と「一般解は大前提」とする暗黙の了解に基ずく行為を峻別することでしょう。30世紀には今の特定解が一般解になったり、一般解は不可能の分野でそれが発見される可能性は十分あるわけです。
しんちゃん
2008/05/24 08:22
まず、科学的営みとは科学ではありませんね。あくまで「的」。つまり科学と同じような手法を特定のものに当てはめてしまうことです。
物理学の古典力学と呼ばれるものは、今の事象にもほとんど当てはまります。相対性理論が無くても事象を説明することが可能ですね。また、ボールを同じ条件下で落とせば、必ず同じ軌跡を描きます。このときの条件としては、風やボールの離し方など、再現できるものが科学です。再現できないものは科学ではありません。再現できることに一般解が存在しうるということです。一般的な解を特定解から求めようとする行為は愚かです。そのことを踏まえて、うまく活かすことが大切です。xx工学といわれているものは、特定解を求めるために変数を実測して一般式と整合をとることで予測する学問です。実際には予測と一致しているか(特定解の一致)を検証しながら応用していきます。
一般解を求めようとして、理性があるとはいえません。自らが理性的であると言う人は自らが理性的でない傲慢さを知っているから、理性的でありたいと思うから、そう表現する人もいます。理性とは、個人個人で定義が異なります。きわめてあいまいです。
一般人
2008/05/24 12:22
数学ですら、本来の定義を忘れて、「xxxの予言」なるものがあります。ある予言については、私は最初の定義と同じ定義内容を表現を変えているだけとしか考えられないものが。最初の定義から考えると自明なのです。愚かな数学者たちと思います。なお、台風の進路は学問が発達しても、決して100%にはなりません。科学的という「的」が入るからです。
一般人
2008/05/24 12:22
いきなり一般解だと!私流に解釈すれば、それは天才たちのなせる技でしかありませんね!公理から演繹する数学の世界ですら、特定の現象にあてはまる論理を拡大して、一般的な定理を推測したり、導いたりしてます。「××予言」とは何を指しているのか不明ですが、予測された定理の証明がなされない限りそれを「○予想」というだけの話です。
古典力学も完全な一般解はその理論のなかにしかありません。再現できるのは、あくまで近似値です。実験道具も理論から生まれた近似的なものです。さらに、それを観察する人間の視力も同一人物でさえその時々で違います。だから一般解や特定解に存在意義があるのです。
「科学的」も「科学」も表現の仕方だけで本質的な問題ではありません。台風の進路も100%はどうあれ99、99%の確率で的中すればそれは十分「科学」です。
それでもそれを「非科学」というのなら、それは「科学」の定義の違いにすぎません。
理性は曖昧じゃないですよ。戦争は理性的行為ではありません。理性的じゃない行為を調べていけば「理性」もはっきりしていくでしょう。
ただ理性的な「戦争」もあるとなるともう話になりません。
しんちゃん
2008/05/24 19:28
私がしんちゃんの頭をたたくとして、1mmずれようがすれまいが、何回でも頭をたたくことはできますね。しんちゃんが逃げるという特殊な条件を除けば。誤差などは、何を目的として測定するかです。科学は100%で科学です。100%でないものは、「科学的」です。
理性はあいまいです。理性が戦争を起こすことがあるかどうかと言われると、「人間だけが仲間を大切にしない。」という言葉が真なら、理性とは無関係に戦争は存在しますね。仮にしんちゃんの思っている理性が明確に定義された場合に、「理性を維持するために戦争が起こる」ことが無いように理性を明確に定義できますか?
科学の反対語は非科学ではありません。
科学的の反対語が非科学的です。
科学に反対の概念は存在しないですよ。
数学で∞がありますが、-∞がどう定義されているか?この定義内容によって、数学はまったく異なる世界を持ちます。相対性理論も同じです。しんちゃんは、物理学を学びましたか?
なお、一般解に完全、不完全なる概念は存在しません。完全、不完全と議論を始めたときから、定義から逸脱しているのです。
一般人
2008/05/24 22:33
なーんだ∞のことを出したので、前のコメントの意味がわかりましたよ。あなたは現代数学を前提に語っている。私は18〜19世紀の数学を語っていた。
物理は一応勉強しましたよ。定義や公理や理論体系を好き勝手に作りだす現代の抽象数学は「暇人のお遊び」にしか思えませんね。19世紀までは、数学者も物理学者もなかったので、それなりに「応用性を求められた数学」を研究してたわけです。
「科学」についても前提を誤解してたようだ。
「応用化学」もその範囲で100%のものを研究します。勿論誤差含めて。私は「理論値」を基準にしてました。%も何を基準にするかで異なりますから。すると気象学も「科学」たりえます。特に、役に立たない抽象的な現代数学を理論科学の基礎にするのは、問題です。
理性と感情を置き換えると、上記コメントの真意を理解しかねます。「理性と戦争が無関係」と主張するのは論理の飛躍ではないでしょうか。
また何故「理性を維持するために」などとおかしな問題提起をされたのか?「平和を維持するための理性とは何なのか?平和維持のために理性は役立つか?それはどんな理性なのか」が大切なんじゃないですか?
しんちゃん
2008/05/25 08:35
それと「非科学」は「科学にあらず」という意味でその「反意語」を意味したのではありません。漢字は表意文字なのです。
しんちゃん
2008/05/25 08:42
私たちは現代に生きています。
しかし、∞、−∞、0、1、−1の概念は古代からあります。ゼロを発見と良く言われますが。ゼロの表記方法を決めたことに意味があります。私は、ギリシア時代の哲人が自然科学者であったことや数学者であったことを大きな前提として考えています。その時代と現代の時代も物理学、数学は形を変えていませんよ。数式は複雑化しましたが、本質的には何もかわりません。私は理性とは感情の中で、その悪と思われる部分を調整するために心の中で折り合いをつけるための方法として存在するものだと考えています。他人の理性と、自分の理性とは異なる要素を持ちます。したがって、理性は戦争を生みえます。しんちゃんの言う理性の定義を教えてください。反意語ですが私の表現が悪かったですね。排他部分。また、「科学にあらず」ですが、しんちゃんにとって科学とは何でしょう?科学が明確でないので排他(非)な部分が良くわかりません。
一般人
2008/05/25 11:50
無限や数の概念は勿論太古からあります。しかし、そうした概念の縛りから自由になる方向性(無意味なもの)でいく数学が20世紀には生まれました。
ま、それは一部の数学者にまかせるとして「科学」は一つの「方法論」だと思います。絵画や音楽を鑑賞しても、人それぞれ感想が違うでしょう。もし自分の感想なり好みなりを押し付けても拒否されるか、相手に理解不能なだけです。しかし、かりにその「思い、美感」何でもよいのですが、万人に同一に理解可能な記述方法が確立されればそれが「科学」です。これは一例だと思いますが、ある論理形式に従えば、同じ経験(結果と言ってもいい)が確実(勿論誤差はあるでしょう)に得られるなら、分野を問わず「科学」だと思います。あくまで個人的な見解に過ぎませんが。
私にとって理性とは2つあります。ひとつは「人を殺さない」というような「道徳」を守る意思。ふたつ目は「感情や偏見や思い込み、マインドコントロール等」から自由になること、及びそれを実践すること。つまり「ありのままに事実を観られる」ことです。
しんちゃん
2008/05/25 13:13
「科学」は方法論ではないと思います。
「科学的」となったときに一つの「方法論」になります。
「科学」と「非科学」とは、「科学」で扱う分野と「科学で扱えない」分野が存在すること。
「科学で扱えない分野」に科学と似た考え方を導入することが「科学的」。科学と似ていない手法をとることが排他として「非科学的」という言葉だと思います。万人に理解可能な記述方法は存在しないと思いますよ。私は生命が「物+心」とは思いませんが、しんちゃんの言葉で説明すると、物は科学で扱える領域。心は科学で扱えない領域です。まったく、異質なものです。したがって心理学なるものは科学ではありません。
一般人
2008/05/25 13:57
また、数学が抽象的に見えるのは、その扱っている範囲が広がっているのでそう思えるのだと思います。たとえば5次元。x,y,z,tの4次元は頭の中で想像できますが、5次元を想像するのは難しいですね。でもx軸に揺らぎ成分(1方向)があると5次元の想像は容易です。同じように考えると多次元に概念は存在します。万人が理解できると思われている数式をもってしても、しんちゃんには理解できない概念となりますね。そういった意味で「万人に理解可能な記述方法は存在しない」と思いますよ。
一般人
2008/05/25 13:57
いつ私が、「5次元を理解出来ない」といいましたか?勝手な判断はやめてください。それから人の文章をよく理解してください。「万人に理解可能」=「万人が実際理解する」ではありません。理解可能なのは、「論理」で記述されているからです。およそ、「論理」以外「万人の理解を可能」にするものはありません。しかし、それと実際に誰かが「それを学ぶ」ことを混同されるようじゃね。
科学も歴史的には紆余曲折ありました。物理が科学として認知されるのも容易ではありませんでした。宗教とのからみもありました。
今でも科学者の世界は政治的な面があります。所詮は人間社会です。きちんとした内容なのに「認知」されないという話をよく聞きます。
「心理学」がまだまだなのは仰る通りでしょう。しかし「物理」もまだまだです。
ひとつ重要なのは科学で全てを知ろうとしてませんか?ボールも動かせば、それなりの物理法則に則って動くでしょう。しかし、それはそのボールの全てではありません。心の全てを記述出来ないから「心理学は科学でない」ということにもならないのです。また、科学の領域も今後広がっていくでしょう。歴史的にそうです。
しんちゃん
2008/05/25 15:00
では数学の何が抽象的なのでしょう?
一般人
2008/05/25 15:22
数学そのものは抽象的ですよ。私が言っているのは「自然哲学の数学的原理」など、以前は物理、自然現象と不可分に研究された数学が、現在は「抽象的理論のみ」を扱う傾向になったことを(応用数学もあるが)、強調して抽象数学と言ってるのです。古代ギリシャなどは学者が様々なものを研究してました。ただ、将来的に現代数学が応用される可能性はあるとは思います。古代と現代の学者たちの違いを述べただけです。その点は表現の差はあれ、似たことを述べたようです。
しんちゃん
2008/05/25 17:18
数学は、自然現象と不可分ではないと思います。同じような思考が求められているだけで。「ピタゴラスの直角三角形の直角部の長さの面積の和が、長辺の長さの面積と同じ」(表現がよくないですが。)とは自然現象とは関係ありません。xの自乗とyの自乗の和が、zの自乗と一致する場合(実数)のx、y、zの関係を説明しているだけです。決して自然現象ではありません。しんちゃんが指摘したいのは、事象と数学とがかけ離れているように思える。ということではないでしょうか?私は事象を説明する道具として数学を捕らえています。したがって道具だけが先に進歩しても問題がないと思います。りんごが落ちるのは、引力ですが重力として扱っても1mくらい落ちることを考えるときには引力でも重力でも関係ないですね。宗教的な要素とは「地動説」と「天動説」でしょうか?私は事象(物)と観測点によっては、どちらでもよいと思います。物と社会を同一視する誤り(科学的の的)が宗教問題に発展したと思います。科学は地動、天動とは無関係だと思いますが。
一般人
2008/05/25 18:39
コメントを読み返してみました。
「物の理を追究するのが物理学。心の理を追求するのが心理学。」って言うしんちゃんのコメントで本記事の趣旨から逸脱した感じですね。
物の事象を説明するのが物理学。心の動きを理解しようとするのが心理学。と私は考えています。心の動きを説明することはなかなか難しい。でも、理解しようとする行為は行えます。ただ、その得られた結果を他の人にまで当てはめようとする行為はおかしいと思います。
一般人
2008/05/25 18:57
そういえば、私が再定義と考えたのは「リーマン予想(Riemann Hypothesis)」です。12月の記事にとりあげましたが、そのときには素数に着目しすぎて、脱線してしまいました。虚数の定義から自明のリーマンの式だと考えています。1+1=2の世界での数学において、1+1=2を証明するなんてことに思えます。1+1=10の世界ではありえませんが。
一般人
2008/05/25 19:05
話が循環してきましたね。気づきましたよ。私は抽象論が比較的得意です。数学嫌いの人に必要なのが、多くの場合ピタゴラスの定理の場合の三角形なのですね。それが現代数学の専門書からなくなりつつあるということです。勿論個人的には、理論のみが先行してもかまわないと思います。単純に円の近似形のものは見えても、n次元空間の近似形(もしあるのなら)は想像するしかないのでしょう(私は想像しない方が分かります)。三角形の近似系の一つ、三角定規なら身近にあるわけです。本屋で数学の啓蒙書を見かけると、具象化(イラストなど)の極めです。
話は変わりますが、自然現象を記述する際には、数学が最も正確に記述するわけですから、全く無関係とは?です。むしろ不可思議です。自然現象と全く無関係に数学者の頭の中で好き勝手に創出された理論や数式が何故「自然現象を記述」することが出来るのか。実に面白いものです。
宗教はよく知りませんが「神が全てを創造した。故に、全ての事象は神のみぞ知る」と宗教通の人からいろいろ聞き、彼が言うにはそのために今でも「科学の進歩」が遅れているところがあるとか。勿論日本ではありませんが。
しんちゃん
2008/05/25 19:39
心の働きが難しいことをもって「科学たり得ない」は知的怠慢です。物理法則も数世紀の年月を要して「現代」のかたちになりました。
どうしてもというなら「心の働きをいくら研究しても科学にならない」ことを証明しなければなりません。ただ単なる一個人の意見ならかまいませんが。リーマン予想はあれが定理になると、数学上の難問が同時に解けるというだけです。フェルマーの定理も単に、解く努力で数学上の発見があっただけでしたね。
しんちゃん
2008/05/25 19:50
知的怠慢ということは、しんちゃん自身は自分の心をまずもって理解できていますか?自身が理解できないものを人に「知的怠慢」とはなかなか言えませんね。物理法則は、その取り扱う範囲こそ拡大して、あたかも発達したかのように思えますが、単に風呂からあふれる水の量を測ることで言えば、すでにギリシア時代から明確な科学として存在しましたね。心理もしんちゃん自身が自らの心を明確にできなければ、他の人には明確にできないということです。数学上の難問の種類によりますが、定義をしっかり見定めさえすれば、解けます。実は定義に縛られていることがあります。定義として扱える範囲がおのずと定まっているにも関わらず、拡張してしまう。拡張段階でその定義の範囲内かどうかの検証を行わないからです。したがって定義の範囲外のことに頭が及ばなくなってしまいます。本来は再定義なのです。古典力学が現代力学と矛盾なく存在しうるのは、その扱う範囲によって何を適用するかの違いですよ。
一般人
2008/05/26 18:45
一般人さん、知的「怠慢」と言いましたが「無能」とは言ってませんよ。人は死ぬまで「知的努力」をするものだと思います。私の今日の心の理解度を100とすれば、100%明確です。ただ、1年前は50くらいでしたね。明日100のままか、120になるかは分不明です。科学の営みそんなものです。ギリシャの哲人たち優れた業績を残しましたが、それ以前の人類の英知(言語の創造や発展、数の概念の発見等)がなければ決して成し得なかったでしょう。また、ギリシャの哲人たちの発見がなければ、古典力学がなければ、「量子力学」なども創出されなかったでしょう。
最初のほうで「素粒子」云々と言ったのは、そういう人類の営みにならって、自身の「可能性」を示しただけです。
繰り返しになりますが、今の「心理学」で個人の心の全てを解明できるとは思いません(遠い将来可能になるかもしれないが)。ただもし、人の心のある側面を定式化したり、数式化したり出来れば、それは「科学」だと思います。問題は一般人さんが定義で指摘されたように、濫用や逸脱をおかしてそれを使用しないことです。「科学」は「科学」で扱える範囲に常に自覚的であるべきだと思います。
しんちゃん
2008/05/26 20:35
毎日が100でない人には、心がわかるわけ無いでしょう。毎日の自分に120が存在する可能性をかんがえれること自体が滑稽ですね。10割をこえる打率のバッターは存在しません。正規化の意味すらわからない人とこのような議論をしても仕方がないようですね。−無限大は正規化すると0の意味すらわからないんですから。しんちゃんは凡人か、知性の怠慢かいずれかですね。心がゆがんでますね。利益か人へのやさしさとどちらが大切ですか?
一般人
2008/05/27 03:50
呆れましたね〜。打率と比較すること自体、詭弁です。どんなにバッティング打技術が向上しても、10割は超られません。それ以上に比喩も理解しないようだ。300%確実という100%の強調形も、あなたにとっては愚かもの発言なのでしょう。未来への夢も愚かなのでしょう。
あなたは、学問世界と個人レベルとを混同してる。私は単純にあなたの質問に答えただけです。それを「エサ」に個人を「誹謗中傷」するような輩とはこちらから、今後どんなコメントをしようと無条件に議論を中止させて頂きます。私にもそう思われるような表現があったようなので、この場をお借りして謝罪いたします。でも、今回のは完全たる中傷文です。
ただ、長々とコメントさせて頂いたことについては深く感謝しております。有難うございました。お元気で。
しんちゃん
2008/05/27 07:58
中傷と取られるとは以外ですね。
科学はしんちゃんのいう100%以外はありえないのです。単にそれを指摘しただけですよ。
正規化された世界で成り立つ世界の科学で分子が分母を上回ることは決してありえません。それが科学だからです。人の心は、推し量れないからこそ分母よりも分子が大きくなることがありえるのです。このことが心を科学では扱えない領域だと証明したのですが?(しんちゃんの世界観に合わせただけですよ。)しんちゃんの世界観に合わせて表現されて、中傷とはなかなか狭い世界観ですね。私はあなたの世界観に合わせただけです。(これが中傷です。)
一般人
2008/05/27 21:53

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